エンタメ・著名人

坂本龍一が教授なのなぜ?有名な功績も紹介!

坂本龍一が教授なのなぜ?有名な功績も紹介!

 

世界的音楽家の坂本龍一さんの死去のニュースが入ってきました。

3月28日に癌の闘病生活の末、亡くなったそうです。

個人的に好きな音楽家なので、すごくショックです。

71歳でした。

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

「世界のサカモト」として有名だった坂本龍一さん。

いろんな呼び名がありましたが、ここ日本では「教授」という呼び方もされていましたよね。

音楽家という肩書なのに、なぜ教授と呼ばれていたんでしょう?

 

そこで今回は、『坂本龍一が教授なのなぜ?有名な功績も紹介!』という内容です。

 

坂本さんが世に生み出した素敵な曲を思い出しながら♪見ていきましょう。

 

坂本龍一が教授と呼ばれていた理由は?

 

この投稿をInstagramで見る

 

Ryuichi Sakamoto(@skmtgram)がシェアした投稿

坂本龍一さんは日本の作曲家、編曲家、ピアニスト、音楽プロデューサー、俳優、と様々な活動をされていました。

 

音楽においては、まさに「天才」!

本当に素晴らしい楽曲ばかりです。

 

坂本龍一さんの曲は、例えば穏やかな曲調であってもついつい引き込まれてしまう、聴きこんでしまう、そんな魅力がある楽曲ばかりです。

こんなすごい音楽家はしばらく出てこないんじゃないか、と思わせるほどの人なんですよね。

 

坂本龍一プロフィール

もしかすると、坂本龍一さんをご存じない方もいると思うので、少しだけ紹介プロフィールをまとめました。

 

ご覧ください↓

~坂本龍一プロフィール~

名前:坂本龍一

生年月日:1952年(昭和27年)1月17日

学歴:東京芸術大学大学院修士

職業:作曲家、編曲家、ピアニスト、音楽プロデューサー

ジャンル:エレクトロニック、クラシック、ポップ、ロック、前衛音楽、実験音楽、フュージョン、アンビエント、シンセポップ、映画音楽、ワールド、現代音楽

担当楽器:キーボード、シンセサイザー、ピアノ、オルガン、ボーカル、ドラム

愛称:教授

・幼い頃からピアノや作曲を学ぶ。

・東京芸術大学在学中にスタジオミュージシャンとして活動。ソロアーティストとして1978年にデビュー。同時期にYMOを結成。

 

  • 世界で活動している日本のミュージシャン
  • 幼いころから作曲を学ぶ。
  • 1978年YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)結成。国内外で商業的成功を収め、人気ミュージシャンとして有名になる。1983年に散開(解散)。
  • 1983年『戦場のメリークリスマス』で俳優として出演し、映画音楽も手掛け、日本人初の英国アカデミー賞の作曲賞を受賞。。
  • 1987年公開の『ラストエンペラー』では、アカデミー作曲賞・ゴールデングローブ賞・第31回グラミー賞最優秀オリジナル映画音楽アルバム賞。
  • 2014年頃から癌の診断を受け療養。2021年頃から転移した肺の摘出手術をしていた。2023年3月28日死去。

実績が多すぎて、書いたら止まらないので、プロフィールではこのへんまで。

とはいっても凄すぎますよね!

『ラストエンペラー』では、世界的な賞を総なめですよ!

 

「世界のサカモト」のニュースは多くの国でも知れ渡っているでしょうね。

 

教授の命名者はYMOメンバーの高橋幸宏だった

坂本さんの音楽的才能の高さは誰もが知るところ。

学歴は、東京芸術大学大学院までいっています。

それが由来となって「教授」という愛称で呼ばれてたのでしょうか…

 

じつは、そう呼ぶきっかけになったのが、同じYMOのメンバーだった高橋幸宏さん。

 

この投稿をInstagramで見る

 

高橋 幸宏(@room66_yukihiro)がシェアした投稿

 

上の写真は坂本龍一さんと高橋幸宏さん。

教授と呼ぶきっかけとなったのは、高橋さんと坂本さんが出会った当時。

坂本さんが理知的で、東京芸大の大学院生というのを知って、

高橋「大学教授にでもなるの!?」

と坂本さんに尋ねます。

 

坂本さんは小さい頃からピアノを習っていて、音楽全般に関して知識量がすごかったそうです。

そんな坂本さんに高橋さんが、

高橋「じゃあ、プロフェッサーだから教授!」

と、命名したそうです。

 

YMO結成直後のインタビューのときには、すでに「教授」と呼んで浸透していたそうですよ。

それから坂本さんの愛称として、「教授」が一般的に広まっていきました。

 

そんなエピソードがあって、数十年後の2014年、坂本さんは実際に母校の客員教授を務めることになりました!

すごいですよね、言霊ってやつですね!!

 

じつは、今年2023年1月11日、「教授」を命名した高橋幸宏さんが、脳腫瘍により併発した誤嚥性肺炎で亡くなりました。

あれからわずか2か月半後、坂本龍一さんの死去となりました。

お2人とも、最後は闘病生活でしたが、天国で会えていることを願います。

YMOのメンバー2人が亡くなってしまい、細野さんだけになってしまいました。

何だか寂しいですね。

でも、素敵な音楽はいつまでも永遠です♪

 

世界のサカモトへ

坂本龍一さんはとにかく、世界的にスゴイ賞をたくさん受賞しています✨

 

プロフィールでも上げましたが、もう一回見てみましょう!

  • 1983年『戦場のメリークリスマス』で俳優として出演し、映画音楽も手掛け、日本人初の、英国アカデミー賞の作曲賞を受賞。
  • 1987年公開の『ラストエンペラー』では、米アカデミー作曲賞ゴールデングローブ賞・第31回グラミー賞最優秀オリジナル映画音楽アルバム賞

 

世界的な音楽賞を総なめなんて、「世界のサカモト」と呼ばれるのは当たりまえですね!

でも本当に素敵な曲ばかりです♪

 

坂本龍一の有名な功績を紹介!

 

 

この投稿をInstagramで見る

 

Ryuichi Sakamoto(@skmtgram)がシェアした投稿

 

坂本龍一さんの功績は、日本人初!という快挙であるほか、常に音楽シーンの中心にいる活躍をされていました。

高橋幸宏さん、細野晴臣さんと組んだYMO時代や解散後に受賞した楽曲など、詳しく見ていきましょう。

 

YMO時代

1978年、坂本龍一・高橋幸宏・細野晴臣の3人でYMO(イエロー・ミュージック・オーケストラ)を結成。

1980年初頭にブームを巻き起こしたテクノポップブームの先駆けとして、世界中のアーティストに多大な影響を与えました。

米国等でのレコードリリースやコンサートツアーをおこなうなど、英語圏では著名な日本人アーティストでした。

シンセサイザーとコンピューターを駆使した斬新な音楽で、1983年散開(=解散)するまでの5年間、日本中を席巻しました!

 

また、YMOのファッションや髪型も特徴的でした!

すっきりとした短髪に、もみあげを無くした「テクノカット」と呼ばれる髪型が若者の間で流行しました。

 

 

でも、華々しい活動とは裏腹に、3人とも疲弊して大変だったといいます。

YMOは5年間の活動の後、散開(=解散)していますが、2007年に再結成した際、3人はこのように言っていました。

 

細野「(YMO活動時)大変だった」

高橋「自分ではコントロールできなかった」

坂本「YMO恐怖症だった」

 

『戦場のメリークリスマス』で英国アカデミー賞作曲賞

1983年5月に公開された、日本・英国・オーストラリア・ニュージーランド合作映画です。

監督は大島渚さん。

第二次世界大戦を描いた戦争映画ですが、戦闘シーンは一切登場しません。

じつはこの映画には、坂本龍一さんが俳優として出演、そして音楽も手掛けたのでした。

いわゆる二刀流ですよね!

 

そして、見事に英国アカデミー賞作曲賞を受賞したのでした。

 

 

 

『ラストエンペラー』で米アカデミー賞作曲賞

『戦場のメリークリスマス』から4年後の1987年。

イタリア・中華人民共和国・アメリカ・イギリス・フランスの合作で、清朝最後の皇帝の生涯を、壮大かつ華麗に表現した作品です。

 

ちなみにこの映画は作曲賞を含む9部門制覇した超大作!

本作品で音楽に携わった坂本さんは、米国アカデミー賞作曲賞を受賞しました!

そして、じつは坂本さんはこの作品でも軍人役で出演をしています。

 

坂本龍一が遺したものとは?

坂本龍一が教授なのなぜ?有名な功績も紹介!

71歳でこの世を去った坂本龍一さん。

日本の音楽界にとって偉大な人が亡くなってしまいました。

でも、坂本さんがつくった音楽はこれからもずっと人々の心に生き続けていくと思います。

また、音楽だけでなく、坂本さんが遺したあらゆるものについて考えてみました。

 

音楽への思い

坂本龍一といえば、やはり「音楽」

生前、テレビ番組で音楽について語ることがありました。

 

そのときの坂本さんの言葉です。

音楽は、「共生」であり、「癒し」である。

2001年のアメリカ同時多発テロの後、失われたたくさんの人々を癒すのは音楽。

反戦を訴えることができるのも音楽。

結局、宗教や哲学では戦争は止められないが、音楽にはその力がある。

人類の宝といえるものがあることを、音楽が思い出させてくれる。

 

このように話していた坂本さんの姿が印象的でした。

坂本さんにとって音楽そのものが、表現することなんですよね。

 

2014年頃「癌」が発症してからの闘病中でも、音楽への情熱は失わなかったそうです。

 

実際に、亡くなる4か月前の2022年12月頃、体はもちろん精神的にも辛かったときであろうとき、オンラインピアノソロコンサート「Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022」配信でピアノコンサートを開催しました。

下の映像は、ピアノコンサート配信前のメッセージです↓

 

 

想像を絶する苦しみの中、坂本さん自身の心を癒していたのが、やはり音楽なんです。

世界中の人たちに癒しを与えていた坂本さんの音楽は、最後、自分の心を癒していたんだと思います。

 

また、坂本さんのピアノが聴きたくなりました…。

 

平和活動や社会問題に声を上げること

坂本さんは、平和活動や社会問題について、積極的に活動したり声を上げるなどしていました。

東日本大震災後の復興活動にも力を入れていたそうです。

地雷除去活動の支援や、脱原発運動などさまざまな社会活動にも積極的に参加。

今年3月には神宮外苑再開発計画の中止を訴え、小池百合子都知事らに手紙を送っていました。

 

 

生前最後の言葉

坂本龍一さんの所属レーベルcommmonsさんが公開したツイートに、坂本さんが好んだ一節を紹介しています。

 

Ars longa, vita brevis.  芸術は長く、人生は短し

 

「人の命は短いが、優れた芸術作品は死後も後世に残る」という、ラテン語のことわざだそうです。

 

坂本さんほどすごい人でも、まだまだやりたかったことや挑戦したいことがあったのかな、と考えます。

 

グッとくる、素敵な一節。

 

悲しみの声続々と・・・

坂本龍一さん死去を受けて、悲しみの声が続々と上がってきています。

 

・YMOメンバーの細野晴臣さんは、自身のSNSで灰色の画像を投稿しました。

 

坂本龍一が教授なのなぜ?有名な功績も紹介!

今年1月には、YMOで同じメンバーの高橋さんが亡くなり、続けて坂本さんの死去。

細野さんの辛い心情が伝わってきます。

 

BTSシュガ(幼少期から坂本さんの映画音楽に影響を受け交流も話題になった)

「先生の遠い旅が平安でありますように」

 

ビートたけし(戦場のメリークリスマスで坂本龍一と共演)

「ただただショックで残念で仕方がなく言葉もありません。戦場のメリークリスマスの大島渚監督が亡くなって、デビット・ボウイが亡くなって、坂本龍一さんが亡くなって仲間がみんないなくなってしまい、『戦場のメリークリスマス』は僕だけになってしまいました」

 

矢野顕子(元妻でシンガーソングライター)英語で投稿。

「Dearest Ryuichi, Would you like to play piano four hands together again?I miss you very much.」龍一さん、もう一度ピアノの連弾をしませんか?あなたがいなくなってとてもさみしいです)

 

小室哲哉(音楽家)Instagramに手書きのメッセージ

坂本龍一が教授なのなぜ?有名な功績も紹介!

 

山田洋次監督(坂本さんが音楽を担当した映画『母と暮らせば』で監督を務めた)

「坂本さんの闘病記を、奇跡が起きて回復するのではないか、ぜひそうあって欲しいと祈るような思いで読んでいましたが、叶いませんでした。大江健三郎さんに続いて、世界中の人々に敬愛される日本の二人の優れた芸術家、反原発、反核の訴えを市民とともに行動したたぐいまれなお二人の死を、どれだけ多くの心ある日本人が惜しんでいることだろうか」

 

[海外メディア]

中国外務省報道官

「坂本さんは中国と日本の文化交流に熱心で多くの優秀な音楽作品を創作し、両国の友好と交流に貢献した」

・イギリス BBC

「日本の電子音楽の巨匠が亡くなった」

・フランスAFP通信

「先駆的な作曲家であり環境活動家だった」。映画「戦場のメリークリスマス」のメインテーマ曲などの作曲で知られ、反核運動や森林保護にも取り組んでいたことを紹介。

・韓国連合ニュース

「日本の映画音楽の巨匠」だったとした上で、2017年に韓国映画の音楽監督を務めたほか、2018年のプサン(釜山)国際映画祭では「ことしのアジア映画人賞」を受賞したことなどを紹介。

 

まとめ

 

この投稿をInstagramで見る

 

Ryuichi Sakamoto(@skmtgram)がシェアした投稿

坂本龍一さんの「教授」呼びは、メンバーの高橋さんから始まったんですね!

 

命名者:YMOのメンバーだった高橋幸宏さん

  • 坂本さんと初めて会ったときに坂本さんが大学院生だと知り、「大学教授にでもなるの?」と尋ねたことがきっかけ。
  • 「じゃあ、プロフェッサーだから〝教授”」と名付けた。そこから一般的に広まっていった。

 

坂本龍一さんが、世界の音楽賞を総なめにした時から35年経っていますが、坂本さんの音楽は今でもなお耳にすることの多い楽曲ばかりです。

 

日本が誇る「世界のサカモト」

こんな国宝のような人が亡くなることは本当に残念でたまりません。

でも、坂本さんの素敵な曲たちはずーっと生き続けて、人の心を癒してくれるのだと思います。

 

今日は、『坂本龍一が教授なのなぜ?有名な功績も紹介!』でした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

今日は、坂本龍一さんの曲を聴きながら眠りたいと思います♪

 

素敵な音楽で心に潤いを♪